雑感 - さかえのよ

(潮)しばらくビート仕分けしません

雑感
05 /11 2017
新しい脚本術の本を買いまして。
これです。



まだチラっと読んだだけなのですがとても有用な本だと思ったので、しばらくはそちらに時間使おうかと。
作者自身が書いているとおり、この本は基本的な脚本術の本と併用して活用するといいらしいです。
確かにその通りだと思います。
起承転結とか、三幕構成とか、ビートがどうのこうのとか、そういう「物語構成の設計図」みたいなものはほとんど書かれてませんから。

この本に書かれているのは、観客に楽しんでもらうためにはとにかく「感情」が必要だよということ。
まだ半分も読んでないから、断言はできませんが。でもたぶん、そういうことが書いてある。

物語構成はしっかり作ったうえで、それでも観客の心をとらえられないのは、なぜか。
感情的にツマラナイからだ。
観客はなんらかの「感情」を楽しみたくて映画を観るわけだから、登場人物たちには共感できる感情だったり、興味をそそる不可思議な感情だったりが必要不可欠。
で、その感情を作るため、または伝えるための技術が、例題を交えつつたくさん書かれてるようです。

脚本家の仕事というのは、テーマをそのまま理路整然と語る仕事じゃない。
それではただの論文、説教だ。
登場人物の感情の動きを見せることで、観客の感情に訴えかけ、テーマを感じ取ってもらうのが仕事。

そんなようなことが書かれてます。
確かにそうなんだよねと思います。
映画や小説は娯楽でもあるわけなのだから、感情体験ができないと面白くないし、意味がないとも思うんです。
感情大事。
すごくよくわかる。

でも。
自分がそれを作れているかっていうと、ノーでしかないんだよな…。
自分が理路整然と語りがちだということも自覚アリ。
ほんとツマンナイんだよ。
説教くさいの。
自分でもよくわかる。

でもどうしたらいいか分からなかった。

その「どうしたらいいか」が、この本には書かれているようで。
私に足りないところを補ってくれる本なんじゃないかと期待して、勉強しますです。
てか私自身、足りないところしかないので、普通に読んでても面白い本です。

ただ、これを読むと二度と映画を楽しめなくなるよ、気を付けてね、って作者が忠告してますので、読む場合はご注意を。
ウラの分かった魔法なんて楽しめないですもんね。
ウラを知ることで楽しめるのは、ウラ方だけだー^^

save the cat のビート仕分けやってて、疑問に思ったこと。
save the cat を読むだけじゃ解決しなかったその疑問。
その疑問に答えてくれる、説明してくれる、解決法まで教えてくれるのが、この本。
脚本術を違う角度から補ってくれるのが、この本。
と、私は思いました。





スポンサーサイト

(潮)日本式とはやはり違うようだ

雑感
03 /15 2017
今日も脚本術について書きますが、完全に私見です。個人の感想です。
もし脚本術を学んでいる方がこの記事にたどり着いてお読みになるとしたら、以下の内容はあまり本気で受け止めないでください。
これは個人の感想であり、間違っている可能性があります。
しかも save the cat の前提でしか、ものを言っていません。




save the cat にそって脚本術を独学してますが。
ハリウッド式を学ぶにつれ、日本式とはやはり別物なんだろうなということが、薄々分かり始めました。
例えばジャンル。
save the cat では10ジャンルに分類されています。

1 家の中のモンスター
2 金の羊毛
3 魔法のランプ
4 難題に直面した凡人
5 人生の岐路
6 相棒愛
7 なぜやったのか
8 おバカさんの勝利
9 組織の中で
10 スーパーヒーロー

ディズニーアニメ見てたりすると、だいたいは、どのジャンルの映画か判断できるようになりました。
けど。
じゃあ邦画を分類してみようか、ってなって。
「となりのトトロ」はどのジャンル?ってなっても。
判断できないのです(^^;

トトロは確かに映画だけど、内容的には絵本のような、昔話のような展開。
save the cat の言うような、10ジャンルには当てはまりません。
save the cat の言うような、ジャンルごとの定番展開にも当てはまりません。

もしトトロをハリウッド式で作り直すとしたら、ハリウッドの脚本家は苦心の末、恐らくは「魔法のランプ」というジャンルに分類して書き始めようとするでしょう。
トトロというのは、言わば「ランプの精」みたいな存在。
こんなことができたらいいな、を叶えてくれる存在。
そんなトトロと出会ったサツキとメイ。
このあたりが「魔法のランプ」に分類できると思うんです。
けど「魔法のランプ」になったらなったで、次のような条件に縛られてしまいます。


【魔法のランプの条件】

1:願い
 …主人公が求める願い、あるいは誰かから頼まれる願いであり、普通の状態から脱しなくてはならない必要性があるもの

2:魔力
 …主人公には「願い」を叶えるための「魔力」が与えられるが、それは「唯一の魔力」であり、2つ、3つと都合よくいろいろなものが与えられるわけではない

3:教訓
 …主人公は最終的に、与えられた「魔力」を使わずに生きるほうがいいと学ぶ


この条件、どれをとっても「となりのトトロ」じゃないですよね。
メイは「こうだったらいいのに」という「願い」があって、トトロという「魔力」を得たわけじゃないと思います。
単純に遊んでたら出会ったって感じです。

ギリギリ上記の条件に持っていけるとしたら、「入院中のお母さんに会いに行けたらいいのに」という「願い」をメイやサツキが持っていて、その願いを叶えてくれる「魔力(トトロ)」を第1幕で得る、っていう流れになるのかな、と。
ほんで、第2幕ではトトロの力を使い、自由自在にお母さんに会いに行くようになる。
でもなんらかの失敗があって、第3幕では「やっぱり自分の足で会いに行くのが、お母さんも一番喜ぶことだよね。魔法に頼っちゃいけないね。さよならトトロ」みたいな結論に達することになるんだと思うんです。

まぁ映画としてはアリかもしれないけど、こうなるともはや、トトロにあらずです。
トトロの名を借りた別物です。


*****


なんか、ハリウッドで実写化したドラゴンボールを思い出しますね。
どうして原作通りに作らないかなーって思うけど、ハリウッドにはハリウッドの黄金ルールがあるからそうしないんでしょう。
ハリウッド式の縛りがあるから、日本の漫画をハリウッドで実写化した場合、なんかもう違いが歴然としてしまって、受け入れてもらえない状態になるんじゃないかと推測します。

たとえばこの、実写版ドラゴンボールを例にとると。
実写版はきっと、「スーパーヒーロー」というジャンルでドラゴンボールを書いたんだと思うんです。
脚本家が、孫悟空はスーパーなヒーローだ、と判断したからでしょう。


【スーパーヒーローの条件】

1:特別なパワーがある
 …主人公を、選ばれし者、救済者、凡人以上の存在、などにするための特別なパワー。それが主人公に宿っている。

2:宿敵がいる
 …自分こそが選ばれし者だとして、主人公と対立する存在。主人公を倒そうとしてくる存在。

3:主人公には呪いがある
 …スーパーヒーローであることの代償として、なんらかの弱点がある。主人公はその弱点を克服するか屈服するしかなく、宿敵は弱点をついて攻撃してくる


これだけ見ると、このジャンルで「ドラゴンボール」が描けそうな気がします。
確かにうまくやったら、原作とは違ったとしてももっといいの書けたかもしれない。
ちなみにこの脚本家は、去年だかに「ファンの方々、ヒドイものを作ってごめんなさい。私は金にめがくらみました、熱意もないのに創作するのはよくありませんでした」と謝罪したそうなんですけど、もともとドラゴンボールに疎かったそうなんです。
完全に私の妄想ではありますが、こんな光景が目に浮かびまする。

1はクリア、悟空は凡人以上のパワーを持った存在だから。
2もなんとかクリアしちゃいましょう、ピラフじゃ迫力ないから、ピッコロが悟飯じいちゃんを殺したことにして、宿敵にすればいいんです。
3もなんとかクリアできますよ、大猿に変身して自分を制御できなくなるっていうのは十分な弱点じゃないですか、あ、ちょうどいいから原作から息子悟飯の高校生設定を拝借して、孫悟空を高校生にしちゃいましょうよ、そうすれば非凡な力を隠していじめられっ子として生活しているハンデとか盛り込めるし、いいじゃないですか。

でもさ、でもね!
悟空って、やっぱりスーパーヒーローじゃないんだすよ。
特に原作の序盤あたりは。

悟空とブルマが出会って、ドラゴンボールを探しに行く。
ヤムチャとかウーロンとかと出会ってドラゴンボールを集めて回る、途中で世界征服を企むピラフにドラゴンボールを奪われるけど、最終的にはウーロンのとっさの願いが叶い、ピラフの世界征服は夢に終わる。
実写版ドラゴンボールのストーリーは、この原作序盤ストーリーにそって、なおかつピラフをピッコロにしてアレンジされたものと思います。

しかし私個人の判断では、原作序盤のこのストーリーは、せめて「金の羊毛」ではないかと思います。
スーパーヒーローっていうジャンルは、とかく哀愁が必要なものらしいのですよ。
こんなに人々のために尽力しているのに、破滅から救っているのに、誰にも理解されない、本当の力をみんなに見せてはいけない、秘密の存在でなければならない、そんな哀愁。
そんな哀愁、なかったじゃないですか、原作序盤の孫悟空少年には。

あっけらかんと、ワイワイガヤガヤ。
旅を楽しんで、強い敵にオラわくわくすっぞーって。
ドラゴンボールのファンはきっと、そういうシーンを「おたのしみ」というビートで楽しみにしていたのだろうから、「スーパーヒーロー」ジャンルが持つ「哀愁」的なものは、必要なかったのかなーとか思います。
スーパーヒーローが背負っている苦渋みたいなものを背負っていないのが、孫悟空のカッコイイところでもあると、私個人は思ったりもしていました。

原作の後半とかは、スーパーヒーロージャンルでも行けるようなとこあったなぁとは思いますが、それでも悟空は、そんな時でも、ハリウッド式の示すスーパーヒーローとは何かが違う。
一般人に解ってもらえない、特別な者であるつらさ、とか持ってないもんね。
世界を救わなきゃならないという使命よりも、強い敵と戦いたいという欲求のほうが強かったりして。
強い敵にわくわくすっぞー。
うわーでもゴメン、この星守れないかも。
だって、この一発であの敵は倒せるかもしれないけど、一緒にこの星も壊れちゃうかもなんだ、ゴメン。みたいな。
そこがなんか、カッコイイとこかなーと。思ってたりしました。
悟空はヒーローじゃないんだよな、戦いが好きなだけのサルなんだよな。


*****


長期にわたり連載されていた漫画を引き合いに出しましたが。
そもそもが違うっていうのは理解できます。
長期連載の漫画で表現できるものと、二時間程度の映像で表現できるものは違うはずです。
長編を原作に映画化するのって、大変なんだと思います。
ある程度、別物になってしまうのは仕方ないかなと。

原作が長編でも別物にならないようにするためには、せめて連続ドラマがいいのかなと思うけど、こんなこともありました。

原作漫画に忠実に実写化した連ドラ作品を見たことがあるのですが、それはそれで頂けなかったのです。
セリフも展開も、漫画どおり。
カメラアングルなんかもかなり忠実だった。
キャラもみんな忠実で。
ほんとに漫画をそのまま映像化したものだったと思います。

なのに、見ていて辛かったのです。
なんだろうな、テンポかな?
テンポが「ぐわーー! しっくりこない!」って感じだったのかな。
原作通りなのになんで不満だったのかは、今でもよくわかりません。

漫画と映画、どっちも違ってどっちもいい。
になれば、それが一番いいのかなぁーなんて、今日は思いました。


(潮)俳優にも脚本術は役立つ

雑感
02 /24 2017
脚本家には、もちろん勉強不可欠な脚本術だけど。
俳優にとっても勉強して損はないなと、最近思う。
どうして学生の時に教えてもらえなかったかな。
教えてほしかったな、って今さら思う。

俳優が脚本術を学んで、物語がどういう構成になっているのかを知れば、場面ごとにどんな演技をすればいいのかが自然と解ると思うんです。
脚本術を知らない俳優は、脚本を読んで、流れを見て、セリフを読んで、自分の演じる役がどう「感じているか」を読み取ろうとする。
その読み取り方がうまい人はいいけど、まだうまくない人は読み取り方を間違えて、脚本家や演出家が求めているのとはまったく違う演技になっちゃったりする。

間違った演技をした時に「そうじゃなくて、こうして」って言われて、そのつどそのように訂正できるいい意味での単細胞な俳優さんはそれでもいい。
けど、「そうじゃなくて、こうして」って言われる意味や意図が分からなくて、頭の中がとっちらかっちゃう俳優さんもいると思う。
そういうタイプの人を見てきたから、、一定数いると思う。
そういう、頭で考えて演技するタイプの人にとっては、とっても役に立つと思うな、脚本術。






(潮)映画と小説の違いに思いをはせる

雑感
01 /20 2017
映画には、小説が原作っていうのがたまにあって。
原作とはほとんど別物になってるものと、まぁまぁ原作に沿ってるものとあるらしい。
ほんで、どちらも見た人の感想の中には、こんなのがある。

「まったくの別物ではなかった。
だが、映画では物足りなく感じた。
映画では描き切れていなかったものが、小説では細かく書いてあるので理解が深まった」

こういう感想読むと、そうかぁって、なんか唸ってしまう自分がいる。
今からこういう感想に反対するような意見を書くけど、こういう感想がダメって言いたいんじゃないです。
色んな理解の仕方があっていいし、色んな楽しみ方があっていいし。
小説と映画をどっちも見て、物語への理解が深まるなら。
そしてそれが楽しいなら、そのやり方がその人にはあってるから。

私は、ね。
小説よりも映画のほうが親しんできているからね。
小説のほうが細かく書かれていた、だから映画のほうが駄作って思っちゃう人がいるなら、なんか寂しいなって思うだけのことなんです。

多分、映画と小説って楽しみ方が全然違うと思うんです。
比べちゃならんと思うのです。
両者を併用して楽しみが倍増するなら、とてもいい組み合わせになるとは思う。
でも原作と映画を比べて、どっちが良かったかって結論になると、なんか寂しい。

映画って「演劇」だから、「演劇」に慣れてないと、気づかないもの、見落とすもの、たくさんあると思うんです。
「演劇」って、言葉じゃないから。
文章じゃないから。
「動き」の中に描写のすべてがあるから。

映画館で映画を観る場合、劇場で舞台演劇を見るのと同じように、観客の意思で巻き戻すことは不可能ですよね。
自分のペースで進めることも不可能。
小説との決定的な違いはそこなんです。
小説と違って、演劇を楽しむためには、動体視力だったり、目や耳に入った情報を覚えておく短期的で瞬発的な記憶力なんかが、実は必要だったりするんです。
与えられる情報に対して、完全受け身状態。
どんな球でもキャッチするための能力が必要。
それらは生まれ持った身体能力みたいなものだと思うんだけど、「慣れ」で使えるようにもなるとは思います。

あと必要なのが、「セリフや表情の裏にある感情や情報を、読み取る能力」です。
「演劇」が大好きな人たちが映画を作っている場合、言葉で表現するのをとにかく嫌います。
言葉じゃないもので「伝えたい」んです。
これは芸術家のエゴかもしれないし、サガみたいなものなんだと思います。
まぁ、言葉にしなければ時間も短縮できますし、長々しゃべらせてる場合じゃないってこともあるでしょう。

あとね、舞台演劇だと、人間の動き以上のスピードは出せないわけだけど。
映画だとさ、編集でいくらでもスピードアップできるじゃないですか。
最速だと、ババババッってフラッシュバックみたいなこともしやがるじゃないですか。
これ、瞬きしてたら見落とすレベルだったりしますよ。
そんな速さで、言葉じゃないものを伝えてきやがるんですよ。
人間なら誰だって、日常生活で人の表情読んだりしながら生きてるだろうけど、それはどうやっても人間の速さの中での話ですよ。

映画が伝えてくる速さが、宇宙人レベルの時ありますよ。
そうやって情報がぐいぐい詰め込まれた2時間を、覚えてられるかって話ですよ。
覚えてられたら、そのぶん、映画であっても深い理解ができますですよ。
私は覚えてられませんよ。
一回見ただけじゃ理解なんて半分もいきませんよ。

映画がね、小説に劣らないくらい、描き切ってるんじゃないかって最近思えるようになったのは、脚本術やり始めてからですよ。
メモを取りながら、何回も映画を巻き戻して見るわけです。
すると一回目にはわからなかったもの、見えなかったもの、気づかなかったものが、見えてくる。
伏線的なものが、かなりの勢いで、わざとらしいくらいに提示されてたことに、気づいたりする。
なんでこれ、気づかなかったかなぁー?って思うくらい。
ただその情報が時間的にはめちゃくちゃ一瞬だったり、表面上の会話に気を取られたりしてしまうから、見落としたり、記憶に残らなかったりして、結果的に「映画のほうが描き切れてなかった」って思っちゃうんじゃないかなって思うんですよ。

作るほうだってさ、作るからには気づいてほしいだろうからさ。
結構、大胆に目の前にぶら下げてたりするんだな、って思います。
そんなに何度も見てくれる人もいないだろうからさ。
できれば一回で気づけるように。
けど、一回じゃ気づかないよね。
かなりの演劇鑑賞名人じゃないとさ、気づかないよね。

つまり、今日のこの記事の着地点はさ、映画を理解したいなら何回も見ろ、ってことでいいんじゃないかな。
それかもう、映画と小説はセットで売り出すのを基準にしたらいいんじゃないかな。
君の名は。みたいに。
みんなの理解が深まるなら、それが一番楽しいじゃん。


ぐろわ姉妹

実の姉妹が小説を共同制作しています

ぐろわ姉妹
潮八(姉):発動する人
斑丸(妹):調整する人

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。