2016年03月01日 - さかえのよ

(潮)あたりがついてきた

自作品
03 /01 2016
そういえば、先日書いた記事を少々訂正しました。
「葛飾、最後のピース」に相棒愛もあるような気がしたと言ってましたが、本をまたよく読んでいるうちに、相棒愛ではないなと結論しました。
条件に合わない。
ジャスティー編も「人岐路」だと思います。

****

最近このジャンル分けにやっきになってるのは、今後のプロット作りをもっとスムーズにこなしたいからです。
この本の示す「ジャンル」に合った展開をすることで、確実にシンプルなお話が出来上がると思います。
見る人も混乱しないで見られると思います。
当然ながら、ひとつの作品にひとつのジャンルがおさまってるほうが、作品としてのまとまりが良いようです。

私が長編のプロット作りに手を焼くのは、どうもジャンルが複数絡まることが原因のひとつのようです。
キャラごとに別ジャンルのプロットができあがってしまう。
この事態にパニックになるわけです。
誰目線で書けばいいか解らなくなる。
そりゃそうです、誰を主人公にするかでジャンルが変わっちゃうんですもの。

この本でジャンル分けされているものは、それぞれに雛形となる展開パターンがあります。
それは、ほとんどの人が言われなくても大体目にしているような、お約束の展開というやつです。
染み込んでるパターン。
私の中にも、知らず知らずのうちにその雛形はもちろんあったわけです。

「私のあなた、あなたの渡し」という長編がなぜトンザしたのか。

初めに思い描いていた展開があって。
それはこの本のジャンルで言うと、Aというジャンルに相当する。
なのに私はBというキャラを主人公にして、これを描こうとした。
ここがきっと迷路の入口だったんです。
Aジャンルで描くには、Cというキャラを主人公にしなければダメだったんです。
もしくはBというキャラを完全に語り部、観察者にし、その目線からCという主人公を描くとかの工夫が必要でした。
いずれにしてもCがストーリーの中心でなければならない。

一番初めは、Cが主人公だったはずなんです。
でも「一般受けしないかも」という不安がよぎり(笑)、Bを主人公にしてしまったんです。
けれどBを主人公にしたがために、思い描いていた展開にはなれなくなってしまいました。
Bというキャラがの受け持つジャンルの展開になっていっちゃったんです。
いったいどうやったら当初思い描いていた展開をねじ込めるのか、頭を痛めてました。
まとまらないー!(泣)
という状態です。

でもこの本のおかげで段々出口が見えてきました。
初心に戻って考えてみると、やりたかった「ジャンル」にもあたりがついてきました。
その「ジャンル」を描けるのは、Cが主人公という配置しかなかったのも、解ってきました。
いや、こいつを主人公にしなくても書ける術はあるのかもしれない。
でも今の私にはその技術はない。
だから今は、なるべくシンプルな完成を目指したい。

シンプルを目指す!
目指してもたぶん、ゴチャゴチャする気がするので…目指して損はないと思う!

きっとジャンルから想定して作り始めれば、こんな面倒は起きないんでしょう。
話に合ったキャラを最後に作るというやり方なら。
でもいかんせん、これはキャラが先にできてしまったお話なので、もがいております。
小説やマンガが好きな人なら誰だって、学生時代の授業中、こんな話が読みたいなーなんて妄想することがあるでしょうよ。
この小説は、そういう妄想が発端のお話なんです。

だから無駄にキャラから作っちゃってるんだよな。
キャラに愛着あるから、誰も捨てたくない。
このキャラたちにあったジャンルで完成させてやるのが、今の私が目指す自己満足です。

(潮)映画「セッション」を分類してみる

◆脚本術/ジャンル仕分け
03 /01 2016
※この記事にある分類は、私が「save the cat」という脚本術の本を参考に分けたものです。
練習ですので間違っている可能性が十分にあります。ご了承ください。
※映画のネタバレしてます


***




映画:セッション
ジャンル:組織の中で(組織の中の師)

やっぱりこのジャンルかなぁと思いました。
ストーリーとしては、音楽学校で音楽を教えている鬼教師とその生徒の話なんです。
鬼教師が人格破綻してんじゃないかってくらいに、生徒をしごきあげます。
その練習風景は軍隊さながら。
罵詈雑言、物も投げるし、皮膚がめくれて血が出るほど執拗な稽古を強いる。
その間も人格否定の言葉が飛ぶ飛ぶ。

そうじゃない! リズムがあってない! このド下手!(こんな優しい言葉じゃない)

この非情で厳しい稽古を負けるもんか精神で突破したものが、真のミュージシャンになるのだよ的なことを鬼教師は言う。
これにほとんど意地で食らいつくのが主人公なんだけど、その様子ははたから見てもヤバイ状態。
あなた洗脳されてるわ、もうやめて! あいつはただのドS教師なのよ!という状態。
事実、この教師のせいでうつ病になり死んだ卒業生がいる。

この映画ってたぶん、ざっくり言うと音楽バカの話なんです。
度を超えたプロフェッショナル精神というか。
音楽にだけ没頭して生きていくサガを持った人の話なんです。
人としての尊厳なんかより、音楽を極める。
いっちゃった人の話。
このいっちゃった人が鬼教師で。
彼こそが「いっちゃった世界の師」なんじゃないかなぁと。
で、「(音楽に対する姿勢が)おかしいのは俺(音楽バカ)なのか、お前(単なる音楽好き)なのか?」ということを描いてるんじゃないかと。

ネタバレすると…
主人公は最後、このいっちゃった世界の住人になったのではないかと思われます。

鬼教師のせいで挫折した彼は学校を退学し、音楽もやめます。
その後、例のうつ病で死んだ卒業生の関係者が現れ、鬼教師の稽古がうつ病を発症するほどヒドイものだったことを証言してほしいと頼まれます。
この証言のせいで鬼教師は音楽学校を解雇に。
解雇されたことで主人公を恨んでいた鬼教師は、偶然に再会した彼に対し、復讐を企てます。
誉めるような態度で、君が必要だ、一緒にコンサートしないかと持ちかけるのです。
自分が証言したことは鬼教師に知られていないはずでしたから、音楽での成功者になるという夢が捨てきれなかった主人公は、嬉しそうに参加することに。

このコンサートは、ここで失敗したミュージシャンは二度と誰からも声をかけられないような規模のもの。
ここで失敗はできないから、練習もたっぷりしてきた。
逆に言えば、ここでうまく演奏すれば成功者としての道が開ける。

しかし主人公はこの舞台上で復讐されてしまうのです。

演奏が始まる直前、鬼教師は「お前を殺す」と宣言。
事態が飲み込めない主人公ですが、とんでもないことが発覚。
ほかのメンバーと楽譜が違う!
鬼教師から、嘘の曲目を教えられていたのです。
当然、演奏できない主人公。
がんばって雰囲気で演奏するも、さんざん。
ものの一曲で、ミュージシャン生命が終わります。
してやったり鬼教師。

完全なる敗北に、主人公は二曲目が始まる前に舞台を去ります。
ミュージシャンとして成功する夢は完全に散りました。
そして舞台袖で家族に慰められ、お前は良くやった、ひどいのはあの教師だと抱きしめられた瞬間。
彼の中でなにかが変わる。

舞台にUターンした彼は、図太い神経でもって再び楽器の前へ。
鬼教師(指揮者なんです)の指示も聞かず、勝手に演奏開始。
殺したはずの主人公が何を思ったか生き返ってきたことに、ぎょっとする鬼教師。
主人公の奇行におののく他の演奏者だが、「俺はこの曲をやる! しっかりついてこい!」という態度に負け、一緒に演奏が始まる。

私が思うに、ですけど。
夢が完全に散った彼はもう、ただ音楽の人になったんだと思うんです。
厳しい稽古を突破したものだけが、真のミュージシャンになる。
どんなに蹴り落とされても、求められた技術を会得して、這い上がる。
これを地でいったんだと思うのです。

鬼教師の「復讐」なんかで今この場を立ち去ったら、「音楽の人」として終わる。
それは成功できないとかそういう現実面のチンケな問題じゃなく、「音楽バカ」としてのサガがなかったという宣言になる。
主人公が舞台に戻ったということは、成功とかどうでもよくなり、単なる「音楽バカ」が誕生した瞬間なんじゃないかと思うのです。

音楽で勝負しろ!という態度です。
で、ずっと鬼教師が求めてきた「完璧なる演奏」をしてみせる。
無の境地で、ただの「音楽バカ」として演奏してみせる。
音楽に全神経が集中しすぎて、意識も吹っ飛びそうになる主人公。

その演奏がすごすぎて、鬼教師も認めざるを得ない。
鬼教師の指揮に、的確に応える主人公の演奏。
これこそが本当の音楽だと、鬼教師も興奮し始める。
ずっと求めてきた「高み」を実現できる者がいたという喜び。
同じ境地で語り合える者が現れたという喜び。

二人は音楽で魂の喜びを語りあい、一切のセリフもなく、演奏が終わると同時に幕となる。
異常な二人を見せつけて幕。
いっちゃった世界で至福となった二人を見せつけて幕。

ここに真の音楽バカがもう一人誕生したのだった…

みたいな終わり方に、私には思えました。
なんだかすごく長くなったけれど、組織の中でというジャンルにあてはまるようが気がします。
こんな感じで。

【組織の中での条件】

1 「グループ」について語る(家族、組織、特殊な仕事など)
(この映画は音楽演奏者という特殊な仕事)

2 ストーリーは「選択」であり、「反逆児」または「観客と同立場である新参者的キャラ」がシステム側の人間と戦う
(この映画では新参者が主人公、システム側が鬼教師かな)

3 最後には「参加」「焼き倒し」「自殺」のうち、どれかの「犠牲」が払われ結末にいたる
(この映画では「いっちゃった世界への参加」かな)


本書では、このジャンルが扱う真の教訓は
「心の声に耳を傾けないことへの危険性」
だとあります。

そこだけしっくりきません。
危険といえば危険ですが、この映画の二人は心の声に耳を傾けていたんじゃないでしょうか?
魂の声というか、魂のサガってやつに従ったんじゃないでしょうか?
幸せだったんじゃないでしょうか?
そのへんは、見る人の判断かと思いますが…
私には危険なことというより、この人たちなりのハッピーエンドとして受け取りました。

どうも、本書の枠は狭いように感じます。
断定しすぎというか。
同じジャンルの中でも、違った描き方、違った教訓をもつものがあるように思います。
まぁ、この映画のジャンル分類を私が間違ったのかもしれませんけど…
それとも本書はあくまで基本、たまには応用みたいなものもあるということでしょうか。
本書の前提は「大衆受けする(売れる)」ための法則らしいから、セッションは「大衆受けしない」映画というくくり、なのかなぁ?
いや単純に、私がハッピーエンドと受け取ってることのほうがオカシイのかもしれない(--;

そういえば、先日の記事で、見たらきっと泣くとか言ってたけど泣けなかった。
頭の中がジャンル分類のことでいっぱいだったからかな。
物語に没入できなかったのかも。
でも面白い作品でした。

ぐろわ姉妹

実の姉妹が小説を共同制作しています

ぐろわ姉妹
潮八(姉):発動する人
斑丸(妹):調整する人