2017年03月15日 - さかえのよ

(潮)日本式とはやはり違うようだ

雑感
03 /15 2017
今日も脚本術について書きますが、完全に私見です。個人の感想です。
もし脚本術を学んでいる方がこの記事にたどり着いてお読みになるとしたら、以下の内容はあまり本気で受け止めないでください。
これは個人の感想であり、間違っている可能性があります。
しかも save the cat の前提でしか、ものを言っていません。




save the cat にそって脚本術を独学してますが。
ハリウッド式を学ぶにつれ、日本式とはやはり別物なんだろうなということが、薄々分かり始めました。
例えばジャンル。
save the cat では10ジャンルに分類されています。

1 家の中のモンスター
2 金の羊毛
3 魔法のランプ
4 難題に直面した凡人
5 人生の岐路
6 相棒愛
7 なぜやったのか
8 おバカさんの勝利
9 組織の中で
10 スーパーヒーロー

ディズニーアニメ見てたりすると、だいたいは、どのジャンルの映画か判断できるようになりました。
けど。
じゃあ邦画を分類してみようか、ってなって。
「となりのトトロ」はどのジャンル?ってなっても。
判断できないのです(^^;

トトロは確かに映画だけど、内容的には絵本のような、昔話のような展開。
save the cat の言うような、10ジャンルには当てはまりません。
save the cat の言うような、ジャンルごとの定番展開にも当てはまりません。

もしトトロをハリウッド式で作り直すとしたら、ハリウッドの脚本家は苦心の末、恐らくは「魔法のランプ」というジャンルに分類して書き始めようとするでしょう。
トトロというのは、言わば「ランプの精」みたいな存在。
こんなことができたらいいな、を叶えてくれる存在。
そんなトトロと出会ったサツキとメイ。
このあたりが「魔法のランプ」に分類できると思うんです。
けど「魔法のランプ」になったらなったで、次のような条件に縛られてしまいます。


【魔法のランプの条件】

1:願い
 …主人公が求める願い、あるいは誰かから頼まれる願いであり、普通の状態から脱しなくてはならない必要性があるもの

2:魔力
 …主人公には「願い」を叶えるための「魔力」が与えられるが、それは「唯一の魔力」であり、2つ、3つと都合よくいろいろなものが与えられるわけではない

3:教訓
 …主人公は最終的に、与えられた「魔力」を使わずに生きるほうがいいと学ぶ


この条件、どれをとっても「となりのトトロ」じゃないですよね。
メイは「こうだったらいいのに」という「願い」があって、トトロという「魔力」を得たわけじゃないと思います。
単純に遊んでたら出会ったって感じです。

ギリギリ上記の条件に持っていけるとしたら、「入院中のお母さんに会いに行けたらいいのに」という「願い」をメイやサツキが持っていて、その願いを叶えてくれる「魔力(トトロ)」を第1幕で得る、っていう流れになるのかな、と。
ほんで、第2幕ではトトロの力を使い、自由自在にお母さんに会いに行くようになる。
でもなんらかの失敗があって、第3幕では「やっぱり自分の足で会いに行くのが、お母さんも一番喜ぶことだよね。魔法に頼っちゃいけないね。さよならトトロ」みたいな結論に達することになるんだと思うんです。

まぁ映画としてはアリかもしれないけど、こうなるともはや、トトロにあらずです。
トトロの名を借りた別物です。


*****


なんか、ハリウッドで実写化したドラゴンボールを思い出しますね。
どうして原作通りに作らないかなーって思うけど、ハリウッドにはハリウッドの黄金ルールがあるからそうしないんでしょう。
ハリウッド式の縛りがあるから、日本の漫画をハリウッドで実写化した場合、なんかもう違いが歴然としてしまって、受け入れてもらえない状態になるんじゃないかと推測します。

たとえばこの、実写版ドラゴンボールを例にとると。
実写版はきっと、「スーパーヒーロー」というジャンルでドラゴンボールを書いたんだと思うんです。
脚本家が、孫悟空はスーパーなヒーローだ、と判断したからでしょう。


【スーパーヒーローの条件】

1:特別なパワーがある
 …主人公を、選ばれし者、救済者、凡人以上の存在、などにするための特別なパワー。それが主人公に宿っている。

2:宿敵がいる
 …自分こそが選ばれし者だとして、主人公と対立する存在。主人公を倒そうとしてくる存在。

3:主人公には呪いがある
 …スーパーヒーローであることの代償として、なんらかの弱点がある。主人公はその弱点を克服するか屈服するしかなく、宿敵は弱点をついて攻撃してくる


これだけ見ると、このジャンルで「ドラゴンボール」が描けそうな気がします。
確かにうまくやったら、原作とは違ったとしてももっといいの書けたかもしれない。
ちなみにこの脚本家は、去年だかに「ファンの方々、ヒドイものを作ってごめんなさい。私は金にめがくらみました、熱意もないのに創作するのはよくありませんでした」と謝罪したそうなんですけど、もともとドラゴンボールに疎かったそうなんです。
完全に私の妄想ではありますが、こんな光景が目に浮かびまする。

1はクリア、悟空は凡人以上のパワーを持った存在だから。
2もなんとかクリアしちゃいましょう、ピラフじゃ迫力ないから、ピッコロが悟飯じいちゃんを殺したことにして、宿敵にすればいいんです。
3もなんとかクリアできますよ、大猿に変身して自分を制御できなくなるっていうのは十分な弱点じゃないですか、あ、ちょうどいいから原作から息子悟飯の高校生設定を拝借して、孫悟空を高校生にしちゃいましょうよ、そうすれば非凡な力を隠していじめられっ子として生活しているハンデとか盛り込めるし、いいじゃないですか。

でもさ、でもね!
悟空って、やっぱりスーパーヒーローじゃないんだすよ。
特に原作の序盤あたりは。

悟空とブルマが出会って、ドラゴンボールを探しに行く。
ヤムチャとかウーロンとかと出会ってドラゴンボールを集めて回る、途中で世界征服を企むピラフにドラゴンボールを奪われるけど、最終的にはウーロンのとっさの願いが叶い、ピラフの世界征服は夢に終わる。
実写版ドラゴンボールのストーリーは、この原作序盤ストーリーにそって、なおかつピラフをピッコロにしてアレンジされたものと思います。

しかし私個人の判断では、原作序盤のこのストーリーは、せめて「金の羊毛」ではないかと思います。
スーパーヒーローっていうジャンルは、とかく哀愁が必要なものらしいのですよ。
こんなに人々のために尽力しているのに、破滅から救っているのに、誰にも理解されない、本当の力をみんなに見せてはいけない、秘密の存在でなければならない、そんな哀愁。
そんな哀愁、なかったじゃないですか、原作序盤の孫悟空少年には。

あっけらかんと、ワイワイガヤガヤ。
旅を楽しんで、強い敵にオラわくわくすっぞーって。
ドラゴンボールのファンはきっと、そういうシーンを「おたのしみ」というビートで楽しみにしていたのだろうから、「スーパーヒーロー」ジャンルが持つ「哀愁」的なものは、必要なかったのかなーとか思います。
スーパーヒーローが背負っている苦渋みたいなものを背負っていないのが、孫悟空のカッコイイところでもあると、私個人は思ったりもしていました。

原作の後半とかは、スーパーヒーロージャンルでも行けるようなとこあったなぁとは思いますが、それでも悟空は、そんな時でも、ハリウッド式の示すスーパーヒーローとは何かが違う。
一般人に解ってもらえない、特別な者であるつらさ、とか持ってないもんね。
世界を救わなきゃならないという使命よりも、強い敵と戦いたいという欲求のほうが強かったりして。
強い敵にわくわくすっぞー。
うわーでもゴメン、この星守れないかも。
だって、この一発であの敵は倒せるかもしれないけど、一緒にこの星も壊れちゃうかもなんだ、ゴメン。みたいな。
そこがなんか、カッコイイとこかなーと。思ってたりしました。
悟空はヒーローじゃないんだよな、戦いが好きなだけのサルなんだよな。


*****


長期にわたり連載されていた漫画を引き合いに出しましたが。
そもそもが違うっていうのは理解できます。
長期連載の漫画で表現できるものと、二時間程度の映像で表現できるものは違うはずです。
長編を原作に映画化するのって、大変なんだと思います。
ある程度、別物になってしまうのは仕方ないかなと。

原作が長編でも別物にならないようにするためには、せめて連続ドラマがいいのかなと思うけど、こんなこともありました。

原作漫画に忠実に実写化した連ドラ作品を見たことがあるのですが、それはそれで頂けなかったのです。
セリフも展開も、漫画どおり。
カメラアングルなんかもかなり忠実だった。
キャラもみんな忠実で。
ほんとに漫画をそのまま映像化したものだったと思います。

なのに、見ていて辛かったのです。
なんだろうな、テンポかな?
テンポが「ぐわーー! しっくりこない!」って感じだったのかな。
原作通りなのになんで不満だったのかは、今でもよくわかりません。

漫画と映画、どっちも違ってどっちもいい。
になれば、それが一番いいのかなぁーなんて、今日は思いました。


ぐろわ姉妹

実の姉妹が小説を共同制作しています

ぐろわ姉妹
潮八(姉):発動する人
斑丸(妹):調整する人