(潮)「君の名は。」で泣けない理由 - さかえのよ
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(潮)「君の名は。」で泣けない理由

君の名は。
11 /28 2017
「君の名は。」で泣けなかった人がいます。
ほとんどの人が感動していたのに、なぜ自分は感動できなかったのか。
自分に何か落ち度があるのかと思ってしまうくらい、どこが感動ポイントか分からなかった人もいます。
普段、映画ではけっこう泣くほうなのに、この映画ではなぜか泣けなかった。
そんな人が本気で不思議がっていました。
泣けなかったことが不思議すぎて、その理由を分析してる人もいます。

私も感動しなかった一人です。
あんなに皆が感動していたのに、感動できなかった自分、なんなの?
めっちゃ疎外感。
世間から置いてけぼり。
感動できなかった理由が本気で分からな過ぎて、戸惑うばかり。
嫌味でもなんでもなく、泣ける理由を教えてほしい。
そんな気持ち、痛いほどわかります。
というわけで、私も自分なりにですが、脚本術の観点から泣けなかった理由を分析してみることにしました。
脚本術を勉強中ということをご了承の上、お読みくださいまし。

****

私がこの映画で感動できなかった理由。
それは……

「この脚本が、誰でも感動するような形式を取っていないから」

これに尽きるような気がするんです。
私が初めて手に取った脚本術に、こんなことが書いてありました。
以下、抜粋して紹介します。(注釈:ページ最下部)


感動とは、読み手が持つ「心の抑圧」を解放すること。
心の抑圧を解放する手段は、三つ。

1、抑圧を与えて、解放する方法
 これは小説や映画など、物語形式で一般的に用いられるもの。
 誰でも感動できる形式。
 物語の最初で抑圧を与えて、後半でそれを解放することで、感動を得ることができる。

2、抑圧を与えずに、同調することで抑圧を解放する方法
 これは、失恋ソングやガン患者の会などがあてはまる。
 同じシチュエーションの人にしか抑圧を解放させることができないが、ピンポイントで深い感動を与えることができる。

3、「鏡」を見せる方法
 ロールシャッハテストのように、極度に抽象化された、それでいて何か意味がありそうなものを見せると、見せられた人は自らが勝手にイメージして理屈付けを始める。この時、その人自身が持つ抑圧を、その抽象的なものに見出す傾向がある。
 これによって抑圧を解放するという方法。
 「ねじ式」や「エヴァンゲリオン」、PCゲームの「ゆめにっき」など。



以上、こんな3つの方法があるそうで。
私が勉強しているハリウッド式の脚本術は、1の方法にあてはまります。
ハリウッド式脚本術=誰にでも理解できるもの。
save the cat では、国や人種が違っていても理解できるもの、原始人でも理解できるものを書こう、と明記されていました。
誰でも理解できる=たくさんの人が見る=ヒットする、ということのようです。
そのため、人として誰でも理解できるような、本能的な抑圧が必要とされています。
そして物語の展開は誰でも分かりやすいように、主人公はこういうことに困っていて、それがこうなってこうなって、こうなったから、こんな結末を迎えた。
と、ちゃんと説明してくれる方法です。

でも「君の名は。」は、どうも1じゃなさそうで。
2か3のいずれかだと思うんです。
3の例にあげられている作品を私は観たことがないので判断が難しいですが、「君の名は。」は恐らく2なんじゃないかなぁと。
いや、わかんない、3かもしれない。
とにかく1じゃないことだけは確か。

できれば2と3が、どういう形式を指すのかもっと詳しく知りたいところです。
が、きっと、理論だてて他人に教授できるのは1の形式だけで、他2つは教授するのが難しいんだと思います。
作者のセンス・感覚だけがすべて、みたいなことだと思います。
だから教科書は作れないんじゃないかなぁ。

身近に「君の名は。」で大感動し何度も映画館に足を運んだ人がいて、まぁ夫なんですけど、彼に聞いたんです。
どこでどう感動したのかと。
この映画の感動どころについて教えてほしいと。
とにかくあなたが感動した理由と、私が感動しなかった理由が知りたいと。

そしたら、「どうもこうもねぇ!」みたいな返事が返ってきまして。
夫はどうという理由もなく、吸い込まれるようにミツハに感情移入して、感動したとのこと。
私は、この映画は感動するには説明不十分だと感てじていました。
感動するための材料がそろってないし、提示された材料さえ回収されず、「なんだこの映画!?」と感じたからです。
ところが、夫は私が欲した説明や回収など別になくてよかったし、そんなことされたら逆に冷めるとか言い出したんです。

一番泣きそうになったシーンを聞くと、彗星が割れはじめ、町のみんなに避難を促して駆けずり回るところだったのだそうです。
ミツハたちが非難を促してもみんな逃げてくれず、もうだめだ、このままではみんな死んでしまう、みたいなシーンです。
悲しみとか、むなしさとか、そういう絶望感で泣きそうになったのかと聞くと、夫は逆だと答えました。
絆を感じて感動したと。

い、意味が分からない…。
あのシーンで絆なんか感じるか??
不思議すぎて掘り下げたくなりました。

それでよくよく聞くと、夫は「君の名は。」をミツハ視点でこんな風に見ていたのです。
私の言葉で説明します。

@ミツハは父親に従順というか、口答えしたり、意見できない性格を持っている
@そのせいか、漠然とした不安を抱えている
@そのため、安心したい、自分を守ってくれる人との絆を感じたい、と心底では思っている
@勇気を持てず、言いつけを守り、大人しく生きてきたのがミツハ
@そんな中タキと出会い、特別な絆を感じ彼を好きだと自覚したミツハは、不安ながらもタキに会いに行く
@ところが、実際に会えたタキは体の入れ替わりが始まる前のタキなので、ミツハを見ても「誰? お前」と答える
@ひどく傷つくミツハ、そのまま地元に帰り、彗星落下で死ぬ
@しかし時間のねじれに気づいたタキが、時間を超えてまで死んだ自分を助けに来てくれたことに、強い安心感や切れる事のない絆を感じるミツハ
@また、彗星落下が迫り、町民の避難計画を実行するあたりでは、彗星が落ちるなんていう嘘みたいなことをテッシーたちが無条件に信じてくれたことが嬉しいし、安堵しているミツハ
@その安堵あってこそ、信じてもらえなくてもいいから町民に避難を促す、という行動を取れているミツハ
@この時点でタキはそばにいないが、タキやテッシーたちが自分を無条件に信じてくれていること、守ってくれていること、責めないで寄り添い、何があっても手助けしてくれること、それがミツハに勇気を与える
@彗星で死ぬかもしれないピンチな状況だけど、心の中は自分史上最高に、不安から解き放たれているミツハ
@タキの名前はすっかり思い出せなくなってパニックではあるが、「絆」という強い安堵がミツハを動かし、父親に意見する(町民を避難させて!)という決断を可能にさせる

と、こんな映画として見ていました。
なにこれ、こんな説明されたらめっちゃ感動できる映画じゃん…。

でも私が、なんの説明もなくこの映画をこんな風にとらえられるかというと、完全にムリです。
そんな視点、浮かびもしません。
だからこそ、この映画は2か3の形式なんだと思うんですよ。
夫がこの映画をこんな風にとらえることができたのは、自分の中にある抑圧と同調したか(2)、自分の中にある抑圧をあてはめたか(3)です。
私は2も3もしなかったから、感動できなかったんです。
今こうして説明されたら感動できるというのは、1の形式が持つ作業を夫がしてくれたからです。
夫が言うには、タキ視点で観て感動してる人もいると思うとのことです。
夫の話を聞いた限りの印象としては、多分これは、2の形式の映画なんじゃないかと思います。

基本的に私は、1の形式の物語が好きです。
「同調」できる作品に出会った記憶がないっていうのもあるかもしれませんが、映画を観る時に、感情移入して感動したいとは思ってなくて。
起きた出来事、それにまつわる人間模様、そういうのを説明されて理解したいというか。
映画=作者の意見だと思うから、「どんな意見かな?」とか、「そうかそういう意見か」とか、相手(作者)の言い分をフンフン聞いて、あとは自分がそれを好きかどうか、感動するかどうか、になります。
主人公が私とはまったく状況が違う人でも、1の描き方をしてくれれば、十分感動することはあります。
登場人物を自分にあてはめて観ないので、感動の種類は「分かる、分かるよぉ! 言葉にできないけど、この映画、胸にくるよぉ!」とかじゃなく、「この人、こんなにダメっこだったのに、頑張ったねぇ! 心入れ替えて良かったねぇ!」とか、そんな種類の感動が多いです。

私の場合は、同調ではなく、同情です。
その人の身になってみれば、どんな人生も感動必至。そんな感覚です。
登場人物にシンクロするんじゃなく、登場人物の隣でずっと見てる感じ。
ずっと見てたから、あなたがそうなる理由分かるよ、あなたが幸せになってくれて私も嬉しいよ。
そんな感じです。

だからね、私がこの映画を観たまとめとして書いておきたいのは、この映画に感動できなくても大丈夫なんだぜってことです。
「同調できる人にしか感動できない(2)」もしくは「自分の抑圧を当てはめた人にしか感動できない(3)」という描き方がされてるんだから、もしあなたが感動できなかった場合、「あー、自分の中にはこの映画に対する同調要素はなかったし、自ら抑圧を当てはめてとらえるという作業もしなかっただけなんだな。そしてそんな人間は、日本では少数派だったんだな」でいいんです。

そして、この映画に感動できなかった理由として、「脚本がなってないからだ」みたいなことを言わなくてもいいんだと思うのです。
確かに1の形式で描いてくれれば、感動できなかった派は感動できると思います。
でも、あの形式だからこそ深い感動を覚えた人たちは、どうなりましょう?
1の形式で描かれたら、彼らにとって大した感動じゃなくなっちゃうんです。
父親との確執はどうなった?など描かれたら、彼らにとってはいらない情報が増えちゃうんじゃないでしょうか。
大感動が小感動になっちゃうなんて、それはそれで可哀そうだし、もったいないことだから、この映画はこの脚本で万事オッケーだったんだと思うんです。

でね、この映画、ハリウッドで実写化するって決まったそうじゃないですか。
恐怖の予感がしてる人が多数いるみたいですけど、
ある意味、感動できなかった派にとっては楽しみじゃないですか?
もしかしたらハリウッド方式で、つまり1の方式で、描いてくれるかもしれないんですよ。
そしたらさ、私でも感動できる作品になるんじゃないかなー。
1の描き方したら、日本版で感動した人たちは怒るかもしれないんだけどさ。
作品のコアな部分が継承されて描かれるんだったら、1の方式になるくらいは、大目に見て許してほしいなーとか思ったりなんかする。




***

(注釈)
今回紹介した3つの感動形式は、以前、インターネットで無料公開されていた脚本術の読みものでした。
確か「シナリオの方程式」というタイトルだったと思います。
私は「葛飾、最後のピース」を、これを参考に完成させました。
当時はファイルがダウンロードでき、印刷したものが今でも手元にありますが、表紙などは印刷しなかったため正確なタイトルが分かりません。
今でも検索すれば関連HPに行けるので、興味のある方は検索してみてください。
著者は、中村あやえもんさんという方だと思います。





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実の姉妹が小説を共同制作しています

ぐろわ姉妹
潮八(姉):発動する人
斑丸(妹):調整する人